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奇妙な“告白”が運命を変える――。
漫画『岸辺露伴は動かない』の原点とも言える短編「懺悔室」が、実写映画となりAmazonプライムでも配信を開始。
ヴェネチアの美しい風景を背景に、運命と呪い、逆恨みの連鎖が露わになる心理サスペンス。岸辺露伴という漫画家の目を通して語られる「幸福の頂点で待ち受ける恐怖」の真相とは?
この記事では、本作のあらすじと考察、感想をまとめて、「逆恨み」というテーマに迫っていきます。
あらすじ

漫画家・岸辺露伴(高橋一生)は取材で訪れたヴェネチアで、ある教会を訪れます。
興味本位で入った懺悔室で神父側に席に座った事で、見知らぬ男・水尾(大東俊介)の告白を聞くことになります。
水尾は若い頃、食べ物を乞う浮浪者ソトバ(戸次重幸)をこき使い、その結果死なせてしまった過去を語ります。死の間際、ソトバは「お前が幸福の頂点に達した時、奪いに来る」と呪いをかけました。
その後、水尾は驚くほど幸運な人生を歩みますが、幸福が満ちるほど恐怖に苛まれていきます。
「心からの幸福を感じた瞬間に、死の絶望を味わう」という逆恨みの連鎖が始まるのです。
幸福を避け、整形までして部下の田口(井浦新)と入れ替わり、孤独に生きてきた水尾でしたが、娘に対してうっかり最高の幸福感を感じてしまいます。そこに死んだはずのソトバが現れ“命を賭けた試練”を強いられます。
考察と感想・これは逆恨みなのか?
呪いは逆恨みか?
水尾が受けた呪いは、果たして“逆恨み”だったのか。
ソトバは「助けてもらえなかった」ことを理由に、死後もなお水尾の人生に介入し続けました。
しかし、水尾は全く助けなかったわけではなく、仕事を与えて報酬を与えるチャンスを作ろうとしました。これは冷酷さというより“働かざる者食うべからず”という価値観からの行動でもあります。
水尾自身苦境に立たされ、やっとのことで日々生き延びていたという状況でした。
ボロボロになって働いて得た糧を、そう簡単に分け与えることはできなかったのですね。水尾の行動は、善意と意地のぎりぎりの境界線にありました。
こう見ると、ソトバの「心からの幸福を感じた瞬間に、死の絶望を味わう」という呪いはかなり一方的――つまり逆恨みに近い?でも一方で、水尾は空腹で動けないソトバを酷使し、結果的に死なせてしまいました。
その後、どういう訳か水尾の人生は好転し、仕事、結婚、子供、財産と次々に幸福を得ます。
この次々とやってくる幸福自体がソトバの呪いが始まっているのですよね。最高と思える幸福に見舞われながら、最高を感じてはいけないという呪い。幸福を得れば得るほど、ソトバの言葉が頭をよぎるのです。
つまり、幸福そのものが“罰のカウントダウン”になっているのです。
人間にとって「幸福を感じる」ことは、生きていく上で重要なソースです。
それを「喜んではいけない」と封じられた時、外側の状況は幸福で満ちていても、内面は恐怖と不安で満たされてしまう。最強の呪いですね。
水尾は事故だったにせよ裁判にかけられず、罰金も支払わず、誰からも責められませんでした。ただ、自分の心と、呪いだけが彼を裁きます。
だからこそ、これは“逆恨み”か“正当な報い”かということでは割り切れないのです。
水尾は整形までして自分と身代わりになる田口と入れ替わります。
入れ替わったとしても結局、幸福を感じる呪いを防ぐことはできませんでした。
結局、幸福を喜べなくなった瞬間から、人は自分の人生を自分で呪い始める
という点にあるのではないでしょうか。
「罪悪感」の具現化では?
露伴が最後に指摘するように、田口(水尾)を追い詰めているのは「呪い」ではなく「自分自身の良心」だと考えられます。
表面上は冷酷でも、人間の心の奥底には「してはいけないことをしてしまった」という自覚が残る。その罪悪感が、田口(水尾)に「見えない存在に追われている」という恐怖を生み出しているのではないでしょうか。
この作品は「呪いが本当にあるかどうか」ではなく、「人は自分の罪から逃げられない」という心理的ホラーにあります。
呪いを信じるかどうかは観る人に委ねられていますが、どちらにしても田口(水尾)が追い詰められたのは、自らの心が生み出した「罪悪感」――つまり“逆恨み”の果てだったのかもしれません。
まとめ
”岸辺露伴は動かない 懺悔室”のあらすじと感想をご紹介しました。
この物語が描いているのは、呪いの真偽そのものではありません。
本当の恐怖は、裁かれなかった罪が心の奥に沈殿し、幸福を感じるたびに罪悪感として蘇ることにあります。
人は一度「喜んではいけない」と思い込んだ瞬間から、自分の人生を自分自身で呪い続けてしまう。
田口(水尾)を追い詰めたのはソトバの呪いではなく、逃げきれなかった良心そのものだったのです。


